マカオの歴史
マカオ(澳門)は現地語の広東語ではオウムン、中国語ではアオメンとよばれ、現在の日本人にはあまりなじみがないが、歴史的にはつながりが深い港町である。
現在は、中国の特別行政区のひとつとなっているが、1999年までは、ポルトガルの海外県であった。
マカオは1513年、ポルトガル人が海路で中国に到達して以来中継貿易港として発展し、特に東アジアにおけるキリスト教布教活動の拠点として重要な位置を占めた。
ポルトガル人がマカオに拠点を置いた16世紀中ごろは、日本の室町戦国時代にあたり、織田信長をはじめ、さまざまな大名がポルトガルの宣教師と手を組みキリスト教の布教を認める代わりに、武器や硝石、香辛料を輸入した。
したがって、これらの産品は基本的にマカオから積み出しされており、中世日本において一番かかわりの深かった町である。
長崎でカステラを広めたポルトガル人もマカオ経由で日本に到達している。
マカオには現在でも、戦国時代から江戸時代にかけてのキリシタン弾圧の際に、日本からマカオに亡命した日本人や、磔(はりつけ)に処されて絶命した日本人殉教者の墓があり、大航海時代の東アジアをしのぶ大変貴重な場所である。
マカオのシンボルとなっているセントポール天主堂のファザード(大三巴)には、中国人を象徴する牡丹とともに、日本人を象徴する菊が彫り込まれている。(奇しくも、現在でも両国の国花である。)
聖ポール天主堂の見事な彫刻
ポルトガル領マカオとしての歴史は、1888年に遡る。
1888年、ポルトガルは清朝との間で香港からの阿片密輸防止に協力する見返りとして「友好通商条約」を締結、ポルトガルのマカオに対する行政権が法的に確立し、清朝はポルトガルがマカオを永久に占有し、第三国へ譲渡しないことを承認した。
ここに、ポルトガル領マカオが誕生したが、面積がおよそ東京都世田谷区の半分の大きさときわめて小さいため、大型船が進入出来る深い港湾が造れず、さらに折しもポルトガルの力が衰え、イギリスが世界の派遣を握らんとしているときであったために、中継貿易基地としての地位は、マカオの東約60キロに位置する香港に奪われ、以後その輝きを取り戻すことはなかった。
その後1987年4月、中ポ両国は「中ポ共同声明」に署名し、マカオは中国の領土であり、ポルトガルは1999年12月19日までマカオの行政管理責任を有し、中国は翌20日にマカオに対し主権の行使を回復する旨を宣言した。
そして、1999年12月20日マカオは予定通り中国に返還され、香港同様、「一国二制度」の下で、外交・国防を除き、高度の自治権を有するマカオ特別行政区として、現行の社会制度、生活様式を返還後50年間維持される運びとなった。
現在のマカオ経済は、ほかの地域と極めて異なった発展を遂げて、おおむね順調である。それは、マカオ自体が製造業や貿易に対する優位性を持たないため、リゾート観光業に特化して中国本土のみならず、台湾や東南アジアなど、中華圏全体からの集客に成功している点である。
マカオといえばカジノ!
マカオの観光業はアジアのモナコ、ラスベガスと呼ばれるように、カジノや競馬などのギャンブルが中心であり、風俗の営業も盛んである。マカオに向かうフェリーが頻繁に発着する香港の信德中心(シュンタクセンター)には、マカオ風俗の受付カウンターがあり、一種けばけばしい雰囲気をかもし出している。
とはいうものの基本的には、マカオは観光するにはとてもいい町である。
サイズがコンパクトゆえに、町めぐりも効率よく行えるし、凝縮されたエンターテイメント空間もここかしこに存在する。
F1のマカオグランプリや地上200mからのバンジージャンプの楽しめるマカオタワー、ポルトガルワインに、ポルトガル料理。
夜になると、ポルトガル語で奏でられる、歌声を聴くこともできる。
町並みもどこか南欧的で、香港の喧騒とは一味違う、ゆったりとした時間をすごすことが出来る。